中川十のANZELたちの羽音(はおと)

 
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  遺体処置室の日常 連載F  水死体で発見された夫の秘密とは? 

音声で聞く
 
水死体で発見された夫の秘密とは?
 

真夏の季節、楽しいレジャーの裏にひそむ溺死の現実
 
最後の二人っきりの時間が、遺族の心を救う


 
「ご主人が海で遺体で発見されました」

 中川 十(なががわ みつる)の遺体搬送車は、間もなくA市の警察署に到着するだろう。
白い普通のワンボックスカーだが、緑ナンバーのこの車は、いま海沿いの国道を南下しつつあり、左にエメラルドグリーンの太平洋、 右に巨大ホテル群を林立している山が迫って来ていた。

信号で車が停まるたびごとに、海水浴客の人の波が横断歩道を横切り、真っ白い砂浜に飲み込まれていく。 家族連れやカップルが、肌を露出したスタイルで、焼けたアスファルトの上を歩いて行った。みんな笑顔だ。夏休みは始まったばかりだった。

 中川も、夏の思い出はたくさんある。小学生のころから兄と、毎年夏は必ず曾祖母の海辺の家に預けられた。夏休み中、曾祖母の家に住み、朝から夕方まで海で遊んだ。地元の小学生とも仲良くなり、地元の子と見分けがつかないくらい真っ黒な肌と泳ぎ方を身につけた。

 夏の青い空は、今でも楽しい幸せなイメージを中川の脳裏に浮かび上がらせ、少年時代の約十年間の夏休みの情景は、今でも鮮明に覚えている。

その彼が、今は「海無し県」で働いている。仕事は多忙を極め、ここ十数年海には行っていない。

 A市は、日本でも有数の海水浴客でにぎわう町である。昔から温泉を中心としたリゾート地としての歴史があり、日本人で知らぬ者はいない。
 バケーションの真っただ中に、このA市に初めて来たことに、中川は内心興奮していた。しかし、その興奮は、顔には出してはいけなかったが。
 
「ご主人が海で遺体で発見されました」。
 
そのあと、「お近くの葬儀社の方を連れて、遺体を引き取りにきてください」と、本当はすぐに続けたかったが、刑事らしき男性の声は、一旦前者の言葉のあと、夫人の反応を待った。

 反応などない。絶句である。
 とかく、こういう悲しい連絡は、人生に一度くらい誰でもある。筆者も小学生の頃、 親戚の死を知らせる警察からの連絡をそばで聞いたことがあったが、 当時の黒電話の呼び鈴の音の不吉さを今でも記憶している。

 いつもと同じ、電話機内部の金属ベルを連続して叩くハンマーの音であるが、 私はその音に振り向いた。何かが良からぬことが起こったと。その虫の知らせは的中し、もはやその親戚はこの世の人ではなかった。


 さて、夫を亡くしたこの妻を、B子(37)としておこう。

 B子は、中川の知人で、ある朝、突然このような悲しい連絡を受け取った。 旦那(42)は、会社の同僚とスキューバダイビングに行くと言って、週末にでかけて行った。 この一年半ほど、旦那はほぼ毎週末、A市にダイビングに出かけている。

 A市の海で行方不明になったのが土曜日とすると、発見が月曜日、警察の捜査を経て、B子に連絡があったのは火曜日あたりだろう。
 お近くの葬儀社と言われても誰も知らないので、B子は中川に連絡を入れた。 彼が地元の病院で死後処置を仕事にしていることを知っていたからだ。

B子は電話に出た中川に、「主人が死んじゃったの」と告げた。 すぐさま、中川は遺体搬送車の助手席にB子を乗せ、A市に向かった。

 海無し県の中川の住む町からA市までは、高速で四時間ぐらいだ。
 
一緒に潜っていた若い女がいた

 夏休みの楽しい時を過ごしているおびただしい海水浴客の間を縫って、中川の遺体搬送車がA警察署に到着した。  B子がまず遺体確認で霊安室に向かった。霊安室は一階の奥にあり、夫であることを確認したのち、玄関ロビーで待っているように言われた。

B子は玄関ロビーの長椅子に座っていた。  B子は刑事から、捜索願を出した第一通報者のことを聞いた。第一通報者は会社の同僚ではなく、若い女性だった。 そもそも会社の同僚とは一度もこのA市に来たことはなかった。いつも週末にこの女性とダイビングを楽しんでいたという。

手をつないで潜っていた時、急に激しい潮の流れに遭遇し、二人は離れ離れになった。
上下左右が分からないほど、激流に翻弄され、女性は必死にもがいて奇跡的に水面に顔を出すことができた。 しかし、B子の夫は、水面に上がってくることはなかった。
彼女は、A警察に捜索願を提出した。

 玄関ロビーでB子からこの話を聞いている最中に、中川は霊安室に来るよう刑事から呼ばれた。
中川は、うつむいて座っているB子の姿を横目で見ながら霊安室に向かった。

刑事は、中川を葬儀社と思っているから、事務的に「早くストレッチャーを持ってきて」とだけ言った。 中川がこの時、その言葉に従って、自分のストレッチャーベッドをいそいそと遺体の脇に横付けしたら、 「はい、そっちを持って」と言われ、

中川の準備状況も見ないで「一、二、三、はい!」と、この刑事は移したに違いない。 旦那さんは身長一八〇センチ、体重約百キロ。贅肉でたるんでいる上に、多量の海水を飲んだ遺体は、早急に移動すると腰を痛める。

 しかし、瞬時に遺体の状況を見た中川は、せめて浴衣を着せてあげたいから少し時間を頂きたいと申し出た。 この日はまだほかの死体が運ばれていないようだったので、その刑事は「終わったら呼んでね」と言い残し霊安室を出て行った。
 
ナマコ色の顔と膨れ上がった体
 
 遺体を観察する。
 どこの警察署も、全裸であることには変わりない。

 しかし、全身が風船をふくらませたようにパンパンに丸いし、目は金魚のデメキンのように突出している。 顔は頬と鼻の区別がつかないほど腫れあがり、顔色は棘皮動物(きょくひどうぶつ)のナマコの色だ。 茶色とも黒ともつかない色に変色している。

 B子が何をもって夫と判定したのかわからないが、中川から見ればまごうことなく水死体特有の状態であった。  お腹も肺も海水で膨れ上がる。問題は飲んだ海水の水質である。海水は人間の体温で温められ、 中で雑菌が繁殖する。雑菌が腐敗ガスを生じさせ、内臓の腐敗も相まって、 全身がそのガスによって膨らんでくるのである。

 そして、今もなおガスが発生しているので、その圧力で体内の水分や血液が押し出されてくる。 それが証拠に、死後三日以上経っているにも関わらず、今も口から血液交じりの体液がタラタラーっと垂れている。
 刑事ドラマで、水死体が港で上がるシーンがよくある。
主人公の刑事が立入禁止の虎テープをくぐって水死体にかけられているブルーシートをめくる。そこに現れる死体役の俳優の顔は顔面蒼白である。

中川に言わせると、あれは冬季で死後十分後だったらあれでも良いが、夏季数日後の発見であったら、俳優の顔を真っ黒にメーキャップしたほうがいいと言っている。

 しかし、いくらリアリティを追究する監督でも、そんなグロテスクなことをしたらテレビ画面に放映できなくなるので都合が悪い。俳優もいやがるだろう。

 しかし、実際には黒いのである。

 中川は悩んだ。時間がない。

 自分の今回与えられた仕事は遺体搬送であるから、別に遺体処置をしなくても仕事としては成立する。 やり方はある。大人用オムツを持っているので、旦那さんの頭部をこのオムツを何枚も使って、ぐるぐる巻きにして、 遺体搬送車に乗せてしまえばいいのである。口や鼻から噴出する腐敗臭は仕方ない。

窓をあけて走ればいい。 そして、自宅に搬送したのち、地元の葬儀社に引き渡してしまえばそれでいいのである。

 しかし、B子の気持ちはどうであろうか?

 警察からの突然の悲しい知らせ。夫の変わり果てた姿。会社の同僚ではなく、若い女性と逢瀬を重ねていた不倫の発覚、 しかも、その女性は事情聴取ののち、もう一切関係ないと言い放ち行方をくらませている。 そして、大人用オムツで頭部をぐるぐる巻きにされたマグロのような夫の全裸姿。漏れた体液と腐敗臭で満ちた車。その遺体の脇のシートにB子が座るのである。

 五歳の一人息子にこのような姿を見せられるのか、なんて説明したらいいのか!

 
ギャー! シャコが口から出てきた!

 中川は息を吸った。

 霊安室特有の陰湿な空気をマスク越しに吸った。

 目の前には奥行2メートルの遺体専用冷蔵庫。自分の地元警察の霊安室と違い、 床がタイル張りになっていて、排水溝が一本貫いている。口から流れ出した体液で床が汚れても、 デッキブラシですぐ洗えるように水道の蛇口もある。〇〇県警と書かれたシュノーケルや水中眼鏡、 酸素ボンベが裏庭に干してある。海水浴客が押し寄せる町の、警察署の霊安室は独特であった。



 中川は、短時間で処置をしようと決めた。このままこの姿で連れて帰っては、あまりにもみじめだ。
 まず、遺体を横にして、胃や肺にある体液を排出させる。ところが、その巨体を横にした瞬間、 口の中から甲殻類エビの一種シャコが出てきた。 ギャーっと叫び声をあげた中川の声を聞いて、たまたま近くを通りかかった先の担当刑事が、何事かと思って覗きにきた。
 中川は顔を赤くして、シャコが口から出てきたことを告げた。

 担当の刑事は、海で溺れて死んだ体からは、カニとかシャコがよく出てくるものですよと、この地方の方言で笑いながら言った。

 海の町の刑事は、もう慣れているようだった。
 中川は、ピンセットでシャコをつまんで、ゴミ箱に捨てた。
 中川はこの日以降、シャコの寿司が食べられなくなった。

遺体処置が終わって、顔色の黒い色はどうしようもなかったが、髪の毛を整えてあげて、体中をきれいにふき、 きれいな浴衣を着せ、普通に寝ている状態にしてあげることができた。

ただ、口や鼻から排出される腐敗臭は、この場では止めることができなかった。
 遺体を、ストレッチャーに乗せて、裏口に停めた遺体搬送車に乗せた。
 車は、A市の警察署を後にした。
 
妻は、恥ずかしそうに顔を赤らめて出てきた

 約四時間後、遺体は自宅に到着した。すでにあたりは暗くなっていた。
 自宅には、先週まで、夫婦と五歳の一人息子、それにB子の両親が一緒に住んでいた。
 B子の父親は家の中で車いすの生活をしていた。B子の留守中、彼女の母親が五歳の一人息子の面倒をみていた。 多分、五歳では父親の死亡は理解できないだろう。息子は、祖母と遊んでいたが、父親の遺体を家に運び込むときは、見ないように二階に移ってもらった。

 一階の和室に、真っ黒な顔の大きな遺体を運び込んだ。すでに敷かれていたふとんに寝かせた。
 関東地方を横断する長旅にB子は疲れているはずだったが、自身はそれには気づかなかった。

 ふとんに寝た旦那さんを前に、中川は六畳の和室を出て、B子を一人にした。
 これは帰りの車中で予告していたことであったが、旦那さんをふとんに寝かせたら、二人っきりで話をしたほうがいいと言ったのである。

「このまま葬儀社や親せきの人たちが来たら、二人っきりで話す時間がなくて、あれよあれよという間に お葬式になって、火葬場につれていかれてしまう。たくさん言いたいことや聞きたいことがあるでしょう? 実際には旦那さんは話ができないけど、きっと奥さんに伝えたいことがあるはずなんです。

でもこのままじゃ旦那さんもB子さんも、お互い気持ちが済まないでしょう? 心のやり場がないでしょう?  好きなようにしていいですよ。夫婦なんですから、触ってもいいんですよ。夫婦の最後のお別れになるんですから。衛生上の処置はしてありますから」と言って、
中川はふすまをしめて六畳の和室を出た。

 左側の玄関の方を見ると、いつの間にか一人息子と祖母が玄関で座っていて、やりとりを聞いていた。 息子は、祖母にだっこだっことか言って遊んでいた。
 閉めたふすまの向こうから、まず大きな声で泣く声が聞こえた。しばらく続いた。祖母も泣いていた。 そのあと、いがみ合う夫婦げんかのようなののしる声が聞こえた。これもしばらく続いた。

泣き疲れたのか、静かになった。ふとんをめくる音だろうか、布と布がすれあう音が聞こえ、 次に唇のような粘膜同士が接着したりするような音と、うめき声が聞こえたような気がした。


 中川とB子の母は、しばらくそれらの声や音を耳にしていた。今日初めて会った二人であったが、
二人は顔を見合わせていた。五歳の息子は、まだだっこされたままだった。
 しばらくすると、B子が出てきた。

 静かにふすまの引き戸を開けると、髪の毛が乱れたままだった。そして、手で唇を隠すようにして、顔を赤らめて出てきた。 ブラウスの裾も一部が、スカートからはみ出たままだった。B子の母親が女の直感で、密室で何が行われたかを察知したように、 しぐさで髪の毛のや衣服の乱れを直すように目配せした。

B子はハッと我に返り、髪の毛を手櫛で整え、ブラウスの裾を両手でスカートの中に押し込んだ。
A市との行き帰りの車中のような悲しみの表情はなく、どことなく妖艶な雰囲気を漂わせていた。

 そして、恥ずかしそうにうつむいて、「中川さん、ありがとうございました」と小声で言った。
 B子は、ちょっと足をふらつかせながら、二階の自室に一旦退いた。
 中川は、B子が、姿の見えないあの若い女から、旦那を取り戻したのだと感じた。


 その後、中川は、二時間かけて化粧を行った。一人息子に会わせるためである。ナマコのような黒い顔を息子には見せられない。 ファンデーションを塗っては乾かし塗っては乾かし、数度層を重ねた。遺体の化粧は、畳に正座して下向きになるので、腰の負担は相当なものとなった。
 内臓の腐敗臭を抑えるために、知り合いの葬儀社からドライアイスを持ってこさせ、指定の部位に密着させた。

 B子に伴って、息子は父親の遺体に対面した。息子は、怖がって母親にだっこを求めた。
 この息子が、父親の死を察知して泣いたのは、告別式の出棺の時であった。
 息子が泣いて、祖母にだっこを求めるためにB子の腕を離れた時、束縛が解かれたB子は、 棺の扉が釘で打ち付けられる寸前、旦那の遺体に駆け寄り、取りすがってまた泣いた。
 棺は、その後、荼毘に付された。



さて、旦那さんの遭難を最初に通報した、あの若い女はその後の消息を、中川はのちにB子に聞いたことがある。
 意外にも、携帯の電話番号を知っていると言う。なぜかと聞いたら、一度だけB子の携帯に連絡があったと言う。 内容は、お詫びの電話だった。しかし、B子は何も話すことはないと言って電話を切った。
 だって、もともとうちの旦那が悪いんだからと、言っていた。

(文 コバヤシ カミュ)

(これは、中川氏へのインタビューをもとに、コバヤシ カミュが物語風に書いたものです)




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