中川十のANZELたちの羽音(はおと)

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音声で聞く
 

  遺体処置室の日常 連載2

 
 
 若い女性が庭で突然死
 
 検視後、帰ってきた遺体は見るも無残。
 
 母親との最後のお別れの日はきれいな姿に。
 

                                              (レポート コバヤシカミュ)
 
 雨の中に長時間倒れていた娘 左半分が赤黒い顔に!
 

ちょうど今時分のことである。三月上旬の冷たい雨が降りしきる日、自宅の庭で二十三歳の女性の変死体が発見された。
 
死亡推定時刻は、午前十時頃。発見されたのが夕方であったから、その女性は半日も、雨の中に倒れていたままだった。
 
母親は家の中にいた。
 
しかし、テレビを見ていて娘の死に気づかなかった。
 
娘は家の中にいるものとばかり思っていたという。昼過ぎにふすまを開けて娘がいないことには気づきはしたが、今度は、 どこかに出かけているかと思ったらしい。二間しかない平屋、木枠のガラスの引き戸のすぐそこに娘は倒れたが、母親は彼女の断末魔の声を聞き洩らした。
 
この、長時間気づかなかったことは、母親の今後の人生において、長く消えることない後悔となって、彼女を苦しめることになる。
 
母親が異変に気づいたのは、近所の人々が騒ぎ出した声を聞いたときだった。通行人が倒れている女性に気づき、警察に通報した。
 
けたたましい複数のサイレンの音が鳴り響き、制服私服含め、大勢の警察関係者が駆け付け、近所の人々なども集まり、およそ数十人の人だかりができた。
 
母親は、初めて庭先に倒れていた娘の姿を見た。
 
娘は、水たまりに顔を浸し、うつぶせで絶命していた。
 
すぐに現場検証が始まった。
 
半狂乱で叫び取り乱す母親の姿とは対照的に、冷静に行動する警察関係者との異様なコントラストは、近所の人々にどのように映っただろうか。
 
本人確認のため、かたわらに敷かれたブルーシートにひっくり返された娘の顔は、接地面の左半分が、すでにおびただしい量の死斑のため、赤黒く染まっていたのである。
 
血液は、死亡後、重力によって下に下がる。一番先に腐敗が始まるのが血液である。うつぶせで死亡すると、顔は鼻という頂点を避けて、必ず左右どちらか斜めに、 半面を地面につける。そのため、今回のケースは、母親のいる家の方角に向けられていたため、顔の左半面のほとんどが赤黒くなってしまったのである。
 
反対側の右半分は、逆に冷たい雨に冷やされた上に、血液がなくなっていくために、一層蒼白になる。
 
白黒半分ずつの顔をしたこの女性が、自分の娘であるかという刑事の質問に対して、「はい、そうです」と答えられる母親が、この世にいるはずはない。
 
さらに甲高い叫び声をあげて、娘に抱きつく姿が、その「はい」に替わる回答となるだけである。
 
娘の死体は、警察の遺体専用車両に乗せられ、病院へ運ばれた。
 
蘇生させるためではない。事件性があるかどうかを解剖して調べるためである。従って担当するのは医師ではなく、検視官である。
 
雨はまだ降り続いていた。

 
 担当となった十(みつる)は彼女の自宅へ
 
 狂わんばかりの悲しみにくれる母親
 

中川 十(なかがわ みつる)は、行政担当者と、当日の夜、母親宅に赴いた。
 
死体発見後、すでに数時間経過していたが、母親の悲嘆と興奮の狂乱は、少しも治まっていなかった。
 
娘の異変になぜもっと早く気づいてあげられなかったのかという後悔と、警察が娘をどこかへ連れていってしまったという非難。冷静な話し合いをするどころではなかった。 話しているうちに、必ずどちらかの感情の寄せる波にのまれて、泣いたり責めたりして収拾がつかなかった。
 
母親宅に行く前に、十(みつる)は担当の刑事から、後追い自殺の恐れがあるからと注意されたが、彼がそんなことを言うのは初めてだった。
 
だが、自分も母親の姿を見てそう思った。
 
このままでは危ないだろう。
 
以後、火葬まで自分が担当することになると伝え、その小さな家を辞した。
 
娘は、園田恵子(仮名)と言った。
 
数日後、心不全という検視結果が出て、事件性なしと判断された。
 
警察から日時指定の遺体引き取り通知が来た。
 
十は、母親に一緒に引き取りに行こうと誘ったが、拒否された。
 
このような深刻な状況を信じられないという心理であろうか。娘に会ったら、自分がどうなってしまうか 自信がないということだった。十は遺体を預かってほしいと切望された。
 
十は、仕方なく娘の遺体を引き取り、ある施設の霊安室を借り、火葬の日まで預かることになった。

 
 火葬の日まで五日間しかない。  そして、五日もある。
 

すでに死後五日経っていた。
 
火葬は五日後と決まった。
 
遺体の状態は良くない。
 
顔の左半分の死斑の塊は、更に色が濃くなり黒色に近づいている。
 
眼球は水分が抜けて、眼窩が窪み、唇も溶け始めていた。
 
水たまりに顔を浸した状態で長時間いたことによって、雑菌の浸入が腐敗を進めたらしい。しかし、 その腐敗を一番促進させる内臓は、解剖の際すでに処分されている。
 
胸元からへその下まで一直線にメスが入っている。長い傷は粗く縫われていた。 司法解剖の死体は全裸で返される。
 
うら若き二十三歳の女性の面影は、いまやどこにもない。
 
左右を白黒に塗り分けられたようなしぼんだ顔と、皮膚と肉だけとなったやせ細った体となってしまったのである。
 
十は、まず髪の毛を洗ってやって、持って来た浴衣を着せてあげた。
 
泥と血液でパサパサになっていたからだった。
 
色白であったであろうその皮膚も、今や内側から腐敗が進んでいて、若いだけに一層死斑が色鮮やかに浮き出て見える。
 
筋肉はすでにゼリー化が始まり、薄くなった皮膚が破れたら、手がつけられなくなるだろう。
 
母親が再び娘と会うことになる火葬の日まで、あと五日間しかない。この赤黒い死斑などをどうするか。
 
また、火葬まで五日間もある。
 
悪化していく細胞をどのように食い止めるか。
 
この五日間が勝負だ。
 
母親に、元通りのきれいな姿でお別れをさせてあげたい、と強く思った。


 
 棺の中の娘を見た母親
 
 娘にすがりつき離れようとしない
 

火葬の日が来た。
 
市の火葬場に、母親は一人でやってきた。
 
落ち着いた様子だが、何か覚悟を決めたような目をしている。
 
この火葬場は、この辺でも一番歴史のある火葬場で、霊柩車から降ろされた棺は、そのまま台車に乗せられ、火葬炉まで運ばれる。
 
この日も、すでに多くの予約でいっぱいで、次から次へと遺族らを乗せたマイクロバスが到着する。
 
園田家は、母親と十の二人だけである。
 
この市では、火葬場では棺の蓋は開けないことになっている。顔の上部にある小窓も開けない。
 
すでに葬式が行われた各会場で、最後のお別れを済ましてきているはずだから、火葬場で最後のそれはしないことになっている。そのための通知も、 あらかじめしてある。従って車から降ろされた棺は、一直線に炉の前まで運ばれて、荼毘に付される。
 
しかし、園田恵子に葬式などない。
 
 
炉の前のこの場所だけが、母娘の最後のお別れをする最後のチャンスなのだ。
 
十は、火葬場のしきたりを破って、棺の蓋を取った。
 
隅の方で一人たたずんでいた母親を強く手招きした。
 
母親は、おそるおそる近づいてきた。
 
そして、娘の姿が目に入った瞬間、何かが母親の感情に火をつけた。
 
「恵ちゃん!」と何度も名を呼び、棺の中の娘に抱きついた。
 
それから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。次の順番を待つ別の遺族が行列を作って待っていたので、たぶん数分のことだっただろう。
 
母親は、それまでの冷静な態度から一変し、いつまでも娘の名を呼び、ほおずりし、体を揺さぶった。
 
訳がありそうなその異様な号泣を見て、次の火葬を待っている名も知らぬ人々はもちろんのこと、 場慣れしているはずの火葬場の職員たちさえも、目頭を熱くしているようだった。
 
十も、いくら顔見知りの職員たちだと言っても、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。
 
意を決して、もう出発ですと告げて、職員たちに目配せをして、棺を炉のほうへ移動させたが、母親は棺に最後まですがりついて離れなかった。
 
厚さ15センチほどもある鋼鉄の炉の扉が閉まるその隙間にまで、母親は手を入れようとしていた。
 
十は、母親を抱きかかえながらかたわらの固いソファに引きずって行った。
 
母親は、最後館内に響き渡るように大声をあげて泣いた。
 
その時、点火のスイッチが入った。
 
轟音が厚いコンクリートの壁の建物に響いた。

 
 思いがけない娘の寝顔の写真アルバム
 
 わが胸に抱きしめる母
 

十は、放心状態の母親を、別棟の待合室に連れて行った。大広間には、それぞれの遺族たちが黒い服を着て待っていた。
 
仕切りなどなく、長椅子が並べられ、それぞれ〇〇家と指定されていた。
 
園田家は、二人しかいないのに、二本の長椅子が用意されていた。
 
まわりの遺族たちは、ちらちら二人の方を見ている。
 
火葬が終わるまで長い時間がかかる。
 
中川十は、あるものを持参していた。
 
母親が落ち着いてきたのを見計らって、勇気を出してそれを母親に見せた。
 
恵子さんの写真アルバムだった。アルバムは、わざわざ専門店で可愛らしいデザインのものを買ってきた。それに十数葉の写真を入れていた。
 
十は、「許可を頂かなくて申し訳ありません。娘さんの寝顔を収めています。お母さんが要らないと言われたら、この場でデータを消すつもりです」と言って、開いて見せた。
 
そこには、棺に寝ている娘の姿が映っていた。花も添えられていた。
 
「いかがいたしますか?」と聞いた。
 
母親は、目を輝かせて、ぜひ下さいと言って、それを受け取り、
 
自分の胸に抱きしめた。そして、また静かに泣き始めた。



筆者は、過日、このアルバムを見るだけという条件で、中川氏から見せてもらった。
顔の左半分を覆っていたというおびただしい数の赤黒い死斑の塊はなかった。
普通の若い娘さんの肌の色をしていた。
また、お母さんは今でも元気なのかと、気になっていたことを聞いた。
中川氏は、
「元気で過ごしている。娘の分まで生きて、お迎えが来たら行きますと微笑んでいた」と言った。
                                 (文 コバヤシカミュ)

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