中川十のANZELたちの羽音(はおと)

 
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  遺体処置室の日常 連載K メディカル高度処置師の飽くなき探求

メディカル高度処置師の飽くなき探求


音声で聞く
 
 

「死体屋」と軽蔑された彼が「日本最高峰」に
 
死後処置にメディカル知識を取り入れる試み

 
 メディカル高度処置師という名に見えるもの
 
 中川 十(なかがわ みつる)は、みずからの職名を「メディカル高度処置師」と称しているが、我が国にこのような資格の正式名称はない。それもそのはず自分が創作したからである。
 
 このように書くと、事情を知らない人々からは胡散臭いイメージを持つかもしれないが、しょうがない。中川曰く。「同じ仕事をしている人に会ったことがない」からだ。
 
 だからと言って、本当に胡散臭いかというとそうでもない。彼はあまり表立って言わないが、彼の技術の詳細を、或る大学病院の教授を通して、学会で検討した結果、非公式ではあるけれど、他に類を見ないレベルの技術であるという評価を受けた。
 
 その教授は、「確かに、我が国ではほかにいない。しかし、最高と言うと差しさわりがあって言えないから、日本最高峰の一つという感じでいいんじゃないの」と控えめなお墨付きを得ていることは確かである。
 
 しかし、中川はそれに慢心することなく、「でも、そんなのはいつか必ずあっという間に上回る人が出てくるだろうし、出てきて欲しい」と言っている。
 
 この原稿を掲載しているホームページ『エンゼルたちの羽音』を立ち上げたのも、死後処置の技術向上と普及のためである。
 
 この仕事が、多くの方々に受け継がれて、裾野が広がってゆくことを、彼は願っている。

 では、その技術とは何か。
 
 いままでこの連載『遺体処置室の日常』の中で、実際の様子を描写してきたが、そのポイントは、何よりもこの『メディカル高度処置師』の職名を分解してみると、それに集約していることが分かる。
 
 彼の作業は『処置』である。本来ならこの二文字だけでよい。
 
 しかし、これに『メディカル』と『高度』と、おまけに末尾に『師』まで付けているのだ。
 
 本来なら彼はこのような、ちょっとお高くとまったような、自分で自分を押し上げる感じの言葉は使いたくないのだが、彼はほかに思いつかないので、これをやむなく使っているにすぎない。
 
 彼は、「死後処置の技術だけではだめだ。残された遺族の心のケアと両輪でなくては意味がない」と言っているように、どこまでも人間(生者死者とも)への大きな意味のケアを目指しており、これを言い表すようなもっといいネーミングがあればそれをつけたいと望んでいるのである。


 
 「死体屋」「外部の素人」とさげすまれた時代
 
 彼がこの職業についた当初は、親族らからは「死体屋」になったと噂されたようだ。
 
「みつるちゃんはいったいどうしちゃったの?」とあるおばから言われた。あんな明るい子だったのに、なぜそんな仕事をしているの、という意味だった。
 
 つまり、おばの頭の中には、暗い地下室で、死体袋で運ばれてきた死体を、ホルマリンのプールに漬けて、ゴシゴシ洗って、一日何万円というような映像が映っていたかも知れない
 
 当然両親も大反対だった。特に父親からは、「そういうけがらわしい仕事は・・・(以下削除)」と言われ、活字にはできない差別表現でののしられた。
 
 久しぶりに親族らに会うと、彼の身体からたまに漂ってくる独特な匂いが、また「死体屋」のおぞましいイメージを増幅させたに違いない。
 
 このような一般的な差別視は、病院の現場でも実際にあった。
 
 患者が病室で亡くなると、中川にお呼びがかかる。彼はストレッチャーベッドを押しながら、すでに親族たちが集まっている病室に入ってゆく。
 
 親族の中には、彼を軽蔑の眼差しで冷たく迎える人もいた。
 
 「何をしようって言うんだ、まったくよお。何でそんな余計な金を払わなくちゃいけねえんだ。早くやって済ましてくれよ」と、あからさまに言ってくる親族もいた。
 
 「こんちくしょう」と、道具を投げ出してけんかして帰ってしまいたい気持ちももちろんあったと彼は告白する。しかし、女房子供の顔が浮かんで思いとどまる。
 
 また、それまで看護師たちの聖域であった死後処置の職域を、『外部の素人』になぜ任せるのかと非難されたこともあった。
 
 しかし、中川は、亡くなった人に非はないと言って、歯を食いしばって耐えてきた。
 
 だが、どうであろうか。
 
 処置を終えて、まず親族に会わせる前にチェックしてもらおうと看護師を呼ぶと、さっきまで仏頂面をしていた看護師が泣き出すのである。患者さんは、いわば長い療養生活で一緒に戦ってきた『戦友』でもあった。親族の前やナースセンターでは泣けないが、戦友と二人きりになったこの空間では、泣けた。
 
 では、廊下で待っていた親族らはどうであろうか。処置後の故人と会った親族らは、彼に失礼な言葉をぶつけたことを詫びなければならなくなった。
 
 掌を返すように態度を翻してもいいような、そんな素直な気持ちにさせてくれる仕事ぶりであった。
 
 なにしろ、その顔は、死者の顔に処置という装飾を施したのではなく、時間をさかのぼって生者のそれに戻ったと錯覚するレベルだからである。
 
 それによって一家心中を決めていた家族に、死を思いとどまらせたり(本連載@)、母親を失って人生を投げていた息子を、立ち直せたりした(同D)のであった。

 
 ドクターや看護師の協力を得て
 
 それでも彼にはこれらの死後処置についても、いくつかの不満があった。
 
 彼は、よく「遺体を守れなかった」という表現をする。
 
 上記のように、親族と対面する日の状態が良くても、火葬の日まで、腐敗のペースを遅らせることができなかったり、出血したり形相が変わってしまったら、それは「守れなかった」ことを指していた。自分への評価のためではない。故人の尊厳と遺族の心が傷つくのを許さないのだ。
 
 「自分の技術の無さに落ち込んでゆくわけですよ」と彼は言う。いったい、どうしたら守ってあげることができるか。
 
 このような彼の飽くなき探求心が、遺体の医学的な変化への探求に向かわせるのであった。『メディカル』の世界である。
 
 まず、それぞれの遺体の観察から始まる。すでに五万人近い遺体を処置してきた中川にとって、五万通りの処置の方法があるという。
 
 一番、顕著なのが匂いである。
 
 死後、遺体の各部位の腐敗が同時に始まるが、彼はこれらの匂いをかぎ分けることができる。それにふさわしい処置をしなければならない。
 
 また、一番隠せないのが顔の形相である。
 
 誰でもるい痩化(「るいそうか」、やせ細ってくること)が始まるが、痩せている人はこの変化が顕著であるから、これの対策をとらなければいけない。
 
 遺体の変化の分野で一番進んでいるが、もちろん法医学の分野である。法医学ではこれを『死体現象』と呼ぶ。しかし、これを彼の仕事に取り込むには応用が必要である。
 
 中川は、法医学のドクターにコンタクトを取り、自分が処置をした遺体のケースを直接尋ねたり、論文をあたってみることもした。そして、自分が処置を行ったそれぞれのケースに当てはめて考えてみる。
 
 病院勤務だったので、優秀なドクターには事欠かない。法医学だけでなく、内科、外科、循環器科、脳外科、心臓内科など、あらゆるドクターに聞いた。
 
 そこで、共通しているのは、当然ドクターは生きている患者さんを相手にしているので、死後の遺体の変化についての経験値がほとんどないということだった。
 
 だから、ドクターの知識や経験を聞いても、死後の遺体の変化については、中川の方で予測することが求められた。
 
 たとえば、同じ胃がんで亡くなった患者さんでも、死後の状況が変わってくる。痩せている人と、太っている人でも違う。年齢も、性別も加味しなくてはならない。
 
 生前の生活様式でも変わってくることが分かった。積極的でアウトドアが好きな人と、インドアの好きな人ではまるっきり違う。性格でも違うことが分かってきた。
 
 アウトドア派で筋肉質な人は、硬直の度合いが早い。合掌ができないくらいこぶしの硬直が強く、また出血も多い。
 
 これらを予測して、出血の出元を把握して対策をとらないと、告別式の最中、口から血があふれ出ないとも限らない。それを見た親族の心中はどうであろうか。こういうことに中川は気をもむのである。
 
 また、看護師からは亡くなる直前の様子や、服用していた薬などの情報も不可欠である。
 
 人間の脳は、自分がこのままでは死んでしまうと判断すると自己防衛本能が働き、全身のエネルギーをもって機能低下を防ぐ働きがあるという。そのため高熱が発生し、こと切れるまでそれが続くことがある。そのような状態で亡くなった人は、腐敗の進行も早い。
 
 また、血をサラサラにする薬を飲んでいた人は、死後も出血が止まらないことが多い。
 (筆者もそのような薬を飲んでいるので、「たちが悪い」と中川氏に言われた。)
 
 そのほかにも細胞に含まれた水分の量によっても腐敗の仕方が違うなどと言っていたが、ここまでくると専門の知識がない筆者には書きようがない。
 
 つまり、要するに、人間が亡くなる状態は千差万別で、生きてきた人生も環境もみな違う。それぞれの状況を踏まえ、死後の処置をしなければならないということである。
 
 現在、医学界も葬儀業界においても、得てして死後処置の実際の内容は、伝統的でお決まりの内容が多いという。
 
 鼻や口に含み綿一つ入れるにしても、分量や綿の種類が変わってくる。しかし、実際には、先輩からの引継ぎをそのまま踏襲し、地域の習慣のまま施していることが多い。
 
 なお処置は、死後直後の内容によって、火葬までの数日間の変化の度合いが決まるという。いかに適切な処置が大切かと、中川は力説する。
 
 この姿勢が、彼を『メディカル』の分野や『高度』処置の領域に向かわせた要因と言えよう。
 
 しかし、それだけではない。ただ単に技術が向上すればよしとするのではなく、先も述べたように、遺族の心のケアにも重点を置いている。
 
 そのため彼は、「死後の処置というより、エンゼルケアという言い方の方が本当はふさわしいと思う。これから、生きてゆく人たちが幸せになっていかなければいけないのに、助けられない歯がゆさがいつもあるんです」と言う。
 
 職名の中の一つの言葉『高度』は、「すでに高度にある」ではなく「高度をめざす」という意味なのだ。

 
 唯一の理解者、祖母が自分の死をもって
 
 さて、話を死体屋に戻そう。
 
 彼がそう呼ばれていた、まだ駆け出しの時期、親族の中に唯一の理解者がいた。
 
 母方の祖母である。
 
 祖母は、会うたびに「みつる! その仕事、いいから続けな」と言っていた。
 
「いいから」というのは「家族みんなが反対してもいいから」という意味だ。
 
 その彼女が、ある秋の日、危篤状態となった。
 
 彼女の子や孫たちが、入院している町の病院に向かった。
 
 父は死に目に会えたが、中川は会えなかった。
 
 
 朝、病室に行ったら、祖母の亡骸がベッドに横たわっていた。
 
 自分の家族のほか、多くのおじやおば、いとこたちが集まってきていた。
 
 父親が、祖母の最期の言葉をみなに伝えた。
 
 その中に、「私が死んだら、みつるにやってもらいたい」という言葉があった。
 
 みな、「え?」という顔をして、最後列にいた中川を見た。
 
 (え? やるって何を?)
 
 父親も何か言いたげな顔をしていたが、故人の遺言だからそのまま伝えるしかなかった。
 
 「え? 処置を? 道具もなにも持ってきてないよ」と言ったら、ひとりのおばが道具を持ってきた。おばはこの病院の看護師長だった。その関係で、この病院に入院していたのだった。
 
 いつものように親戚たちに一旦廊下に出てもらった。
 
 いつも自分が使っている道具と比べると、まことに原始的な道具だったが、どこの地方都市の病院でも、みな同じことだろうと思った。
 
 祖母と二人きりになった。
 
 あまり泣かない中川であったが、この時はおもわず涙が出てきた。
 
 処置が終わり、親戚がまた病室に入って来た。
 
 一番驚いたのが看護師長のおばであることは当然だった。
 
 自分たちがいつもしているレベルではなかったからだった。
 
 直系の親戚たちが、まず泣き出した。
 
 みんな、彼の仕事を理解した瞬間だった。
 
 父親が近寄ってきて、中川に笑顔で何か言おうとしていたようだったが、声に出して「ご苦労さん」と言うような性格ではないことは、彼が一番よく知っている。
 
この日以降、親族の誰も、彼を「死体屋」と呼ばなくなった。
 


(文 コバヤシ カミュ)
 
(これは、中川氏へのインタビューをもとに、コバヤシ カミュが物語風に書いたものです)
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