中川十のANZELたちの羽音(はおと)
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「遺体処置室の日常」
一家は心中する計画だった
(レポート コバヤシカミュ)
家族に見せられる顔を作るんです。究極の死後処置
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2011年3月の、東日本大震災から半年ほど経った初秋のある日、中川 十(なかがわ みつる)は、知り合いの老人介護施設の長から連絡を受けた。
福島県から避難してきた80歳代の女性が、危篤状態に陥ったので、死後処置の準備をしておいて欲しいという内容だった。
中川は、当時はまだ前職の葬儀業の業務の一部をひきずっていて、遺体搬送業のかたわら、死後処置(エンゼルケア)の作業を始め出した頃だった。
生活は楽とは言えず、病院や施設などから呼び出しがあれば、365日24時間、すぐに現場に駆け付けるという生活だった。
まあ、今もそうであるが・・・。
その女性は、福島県N町から避難してきた数名のうちの一人だったが、N町ですでに施設に入所していたのか、自宅で過ごしていたのかは分からない。
とにかく、訪れたこともない栃木県の施設にトラックだか何か居心地の悪い車に乗せられ移動してきて、半年過ぎたのだが、ここ数日危篤状態に陥ったらしい。
数日後に、中川は施設に赴くことになった。その施設の遺体安置所は、長い廊下を
50メートルも歩いたその先にある。ストレッチャーベッドの上に、いつものように遺体が横たわっていた。
引継ぎ書類には「老衰」と書かれている。
老衰とは「老いて衰える」と書き、特に病気の跡もなく、静かに息を引き取ったかのようなイメージがあるが、実際にはそうではないケースが多い。
彼女の顔は、目は上を見開き、義歯が外されているので、口が火山の火口のように陥没している。 そして、まだ酸素を肺の中に取り込むかのように、大きく開いたままだ。よくある表情だ。
この前、不謹慎な遺族がいて、「中川さん、おじいちゃんの顔が肛門みたいになっちゃってるんです。 どうにかなりませんか」と言われてびっくりしたが、それは義歯のない窪んだ口の事を言っているらしかった。 若い女性がそんな表現をするものじゃないと言いたかったが、言いえて妙なので特に否定もしなかった。
臨終間際に38度以上の高熱があったらしい。背中に手を入れてみると熱い。この熱は今後24時間以上は続くであろう。
人間は、死を迎えると、体の中にあるすべてのエネルギーが延命のために注力されることから、高熱を発することがある。 また、呼吸が鼻呼吸から口呼吸に代わる。一息一息、空気中の酸素をわしづかみにして肺に取り込もうとするような状態になるが、こうなると数日後に息を引き取るのが通例だ。
中川に施設長から連絡が来たのは、この状態になったからだった。
要するに、女性の遺体は、重度の肺炎で苦しみながら悶絶した痛ましい姿と同じであって、持病がないだけで、死因欄に「老衰」と記入されただけのことである。
このお顔を、「メディカル高度処置師」は、遺族に会えるように変えるのである。
メディカル高度処置師とは、中川がみずからにつけた職名で、メディカル(医学的な見地から)高度(な処置を研究し)処置(する)師」ということで、つけたものだ。
彼曰く、「頬骨とおでこが上がって、目尻が下に下がる。これが人間が一番気持ちがいいと思った瞬間の顔なんです。これを作るんです」
作るといっても、簡単ではない。まだ、我が国でも地方によっては、つい最近まで自治会の高齢の女性たちが死後処置をしていたようだが、 それは口に綿を詰めたり化粧したりはする。しかし、綿を入れすぎて唇が突出したり、防空頭巾のようなひもで強制的に顎を上げて口を閉じるために、痛々しい感じになる場合が多い。
しかし、中川は、咽頭から口腔の構造を逆に利用し、綿を詰めながら、自然と口が閉じるように仕向けて行くのである。
また、顔の表情にしても、手を使って顔の表情筋を伸ばしたり縮めたりして、1ミリ単位までこだわって作っていく。 人間の顔には、この狭い範囲に、二十種もの表情筋があり、人間の感情を表す働きをしている。
彼の手にかかると、化粧で取り繕わなくても、本人の顔の表情筋だけで、自然な笑顔を作り出すことができるのである。
それが成功したかどうかは、遺族が対面した時の状況で分かる。
きっと途中で肛門と口から汚物が噴き出ますよ
息子の家族が到着したのは、お昼ころであった。(息子さんの名前を、N町の頭文字からNさんとしておこう)。
年齢は50歳代。妻も同年代か。一歳ぐらいの赤ん坊を連れている娘は二十歳ぐらい。4人で、乗用車にのって避難先から栃木市にやってきた。
避難先は仙台市内の一戸建て住宅だという。市から空き家の住宅をあてがわれて、そこに住んでいるとのこと。
家族は、霊安室に通じる50メートルの廊下の途中で、施設長から中川を紹介された。
母親の死後処置と仙台までの遺体搬送を行う者であると。中川は名刺を出した。Nさんは名刺を受け取っただけで、 ポケットに入れて一言、「母親は私が車で乗せていきますから、いいですよ」だった。
中川も施設長もはじめ何を言っているのか分からなかった。まだ、母親の遺体に対面もしていないのに。
中川は少し狼狽しながらも、専用車による遺体搬送の必要性を説明した。
近所なら遺族が自分の車で搬送した例はあるが、いずれもワンボックスカーで、遺体がまっすぐ横になれる場合であった。
乗用車の後部座席に座らせるとなると、腰をL字に曲げることになる。仙台まで東北自動車道で約270キロメートルで休憩なしでも3時間と少し。 そうすると遺体がどのように変化するかと言えば、振動による腹部圧迫で腐敗が進み、きっと途中で汚物が肛門と口から噴き出ることになると説明した。
素人には少々グロテスクな表現かと思ったが、遺体が高熱の状態が続いている状態を考えると、なおさらだ。
第一、娘さんが赤ちゃんを抱いて座っている後部座席の、一方の席に死んだ老女が座っている。シートベルトをしていても、 カーブで死体が傾き、赤ちゃんの上に倒れ込んだりしないか? いくら中川が自然な顔に仕上げたと言っても、 腐敗の進む不衛生な「生もの」であるには違いない。腐敗臭も耐えられない。では、ドライアイスで冷やすか? いや、締め切った車内でそんなことをしたら、短時間に一酸化炭素中毒で一家心中になってしまうだろう。
「一家心中」という言葉を、不用意に使ってしまった。その無礼さを中川は詫びたが、その時、Nさんの表情の微妙な変化には彼も気づかなかった。
これから仙台まで帰る道中、このNはさまざまなシグナルを、知らず知らずのうちに中川に送ることになるのだが、彼はそれを最後まで見抜けなかったのである。
しかし、逆にそれが幸いしたのかも知れない。
遺体を、ただずっと見詰めるだけの家族
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この家族が、遺体に対面したときほど、奇異に感じたことはない。
なにしろ、霊安室に向かって歩く速度が遅い。数多くの同じシチュエーションを経験しているが、通常家族は足早に歩いて、 遺体に対面したら、まず嫁さんが先に「お義母さん」と言って泣きつくのである。
しかし、その嫁さんが、大人三人の中で一番あとに入って行った。
Nさんは、長い廊下をゆっくり歩いて、押されるように霊安室に入った。
ストレッチャーの上に、母親が横たわっている。火葬用の白い着物と薄紫の羽織を着ていた。両手は胸の上で、やわらかに合掌をしている。
妻と娘は、Nさんの両脇に立って、同じように母親を見下ろしている。
今日この三人は、母親の死亡したのを確認しにきたのだろう。特に、悲しくもないし、それほど会いたくもない母子関係だったのだろうか。
だから、死亡を確認したら、すぐに踵を返して「じゃあ、行きましょうか」となるだろう。
今朝、目を見開いて悶絶していた死に顔を見たとき、中川はなんと不憫な人だろうと内心思った。被災して逃げてきて一人で死んでいった上に、 こうやって息子の家族から泣かれることもない。母親だから連れて帰って火葬しなければしょうがないという感じか。
ところが、三人はずうっとこのまま突っ立っているだけだったのである。
中川は、入口から三人の後ろ姿しか見えない。
表情は分からない。
母親の顔を見て、なにかを考えているのだろうか?
ずうっとそのままである。
中川の仕上げる顔は、「生きているみたい」とよく言われる。
「きれいなお顔ね」ではない。これは死者を前提としているほめ言葉だ。しかし、前者は、本当に寝ているときのような表情にまで戻すのである。
化粧をすればいいというものではない。さきほども書いたように、目尻の1ミリの向きの違いが、顔の「生死」を分けるのであった。
Nさんは、すすり泣きを始めた。予定していなかったような泣き方のように思えた。泣くつもりはないし、泣くはずもないと思っていたが、この顔を見て泣き始めたという感じだった。妻も娘もそれにつられて泣き始めた。
仙台に行くには東北道が一番近いのになぜ?
中川の遺体搬送車は、市販の白いワンボックスカーと外観は同じだった。外観で違うところは、窓にはシートが貼られて中が見られないことと、緑ナンバーであることの違いだった。
緑ナンバーのくせに、セルフガソリンスタンドでしか給油したことがなかったと告白している。なぜか。 スタッフがいるフルサービスのスタンドに緑ナンバーの車で入って、「レギュラー満タンですか?」と聞かれて、「いえ、千円分で」とは言いにくい。
当時、お金のなかった中川が、借金して内部改造した車がこれだった。
運転席は市販のワンボックスカーと同じであるが、後部は純正のシート類は全部撤去し、ストレッチャーベッドが縦にスライドして入るように平らになっている。
遺体は、後部のハッチバックドアを開けて、遺体の頭部を先頭にして、運転席の後ろめがけてベッドを滑らせるのである。
ベッドに右手を添えられる位置に、後付けのイスが設置され、遺族の一人が付き添えるようになっている。
この老人介護施設の施設長の方針で、亡くなって退院する入所者は、顔を露出した姿で玄関を出ることになっている。
こういう所は珍しいらしい。
なぜか。ミイラのように全身が袋で覆われた姿で門を出ていくことは、いかにも病気に負けて死んで帰って行くようで、人間の尊厳が損なわれるのではないかという理由からだった。
だから、ここでは堂々と顔を出して、スタッフや他の入院患者たちから見送られて、施設の正門から出てゆくのである。
Nさんの乗用車を先頭にして、中川の遺体搬送車がそれに続く。
中川の車のクラクションは、霊柩車につけられているのと同じもので、「ホーン」と呼ばれるものである。
390Hzの重低音電子ホーンで、オーケストラの金管楽器ホルンに似た重奏音サウンドが出るようになっている。 中川は、お別れのホーンを鳴らした。 多くの人々が合掌して見送る中、二台の車は仙台に向かって門を出て行った。この瞬間こそ、この仕事の真骨頂である。
先行するNさんには、後からついてきてとしか言われていない。Nさんの車は栃木市のインターを入り、東北自動車道を北上する。
この時、中川がもうちょっと注意深ければ、二台が栃木都賀ジャンクションを右折し、北関東自動車道に入ったことに気づくはずだった。
仙台には、先にも書いたように、このまま南北に走る東北自動車道で行けば直線距離で一番早い。しかし、Nさんはあえて交差する高速道路に右折し東に向かったのである。
この北関東自動車道に入ってから仙台に行くには、次の友部ジャンクションを左折し、常磐自動車道を北上するしかない。一時間も余計にかかる。どうしてそんな遠回りを?
実は、Nさんは、仙台にはもう帰るつもりはなかった。ひそかに、故郷のN町に向かったのである。
代わりに車たちが死んでいってくれて 良かったんですよ
中川が、常磐自動車道で仙台に向かった事実を知ったのは、今回のインタビューが発端だった。
10年以上、ずっと東北自動車道を走って仙台に向かったと思っていた。
ところが、福島県内を通過しているとき、太平洋が見えたと答えたので、おかしいということになった。
東北自動車道からは、海の見えるところはない。しかも、故郷のN町は通らないので、常磐自動車道しか選択肢が残っていないことを知ったのである。
しかし、中川はそんなこととはつゆ知らず、実際には福島県内の常磐自動車道を走っていた。
「お母さん、故郷に帰ってきましたよ。海が見えますよ」と、中川はNさんの母親の遺体に話しかけた。
中川の変わっているところは、正者と死者の区別があまりないということだった。長年死者とかかわる仕事をしていて、遺体に話しかけることは自然なこととなった。
また、中川自身が、死者の霊魂は、必ず遺体のそばにいると思っていた。
それは、それまでのさまざまな霊的な経験から、それを彼は強く感じ取っていた。だからこれは「独り言」ではなく、本当に話しかけているのだ。
車内二人きりだし、退屈だし、遺族は誰も付き添っていないし、ここに着くまでにもう何回も話しかけていたのだった。
「ねえ、お母さん」
再び話しかけた。中川のお尻の裏側に、お母さんの頭部がある。
「もう死んじゃったので言うんですけど、許してくださいね。なぜ、誰もこの車に乗らないんですか? ふつう誰か家族が乗るんですけど・・・。
だって、お母さんはあの地震の津波の中を、命からがら逃げのびて、見ず知らずの土地に来たんでしょう?
それで一人で死んでいった。家も流されたんですよね? 昨日は、苦しかったでしょう? すごく怖かったでしょう? でも、半年ぶりに会った息子さんたち家族は、なんであんな態度なんですか? いやいや来たみたいな。
何かあったんでしょう? どこの家でもありますよ。でもねえ、お母さん。何があったとしても、仲直りして、今は息子さんたちに力を貸してあげたらどうですか? 家も仕事場も全部流されちゃったって言ってましたよ。こんなこと言うのは差し出がましいことかもしれないけど、 生きている時は、あまり息子さんたちを助けられなかったんじゃないですか?」というところまで言ったときに、携帯電話が鳴った。
Nさんだった。
「次のサービスエリアで休憩しませんか」とのことだった。
私たちは、左のウィンカーを出して、側道に入って行った。
N家は、Nさん一人だけが車から降りて来た。
妻と娘は、車内にそのまま居た。
Nさんと中川は、連れ立ってサービスエリアの灰皿のあるところに行った。
「煙草吸うんでしょう?」とNさんが言った。
その当時は吸っていたので、「ええ」と答えた。
しかし、仕事中だから今は吸えないと言うと、Nさんはしきりに煙草を勧めてきた。
どうぞ、大丈夫ですよ。吸いましょうと何回も勧めて来たので、中川はNさんの差し出す煙草を受け取った。
Nさんがライターを出して、中川の火をつけてあげた。
Nさんの煙草の吸い方は、いまでも鮮明に覚えていると中川は言う。
「たとえば、死刑囚が死刑執行の直前に許された一本みたいに、おいしそうに吸うんですよ。何十年間も吸えなかったのに、刑務官から最後の一本もらった。ひさしぶりの煙草の味であると同時に、この世の最後の一本という感じで」
すーっと肺の奥に煙を吸い込んで、そのまま呼吸を少しとめて、肺から血管に流れ込んだニコチンを全身に行き渡らせるみたいな。指の先の毛細血管までニコチンが行き届いたのを見届けて、ハーっと、ゆっくり吐き出す感じ。そして、またゆっくり吸い込んで、ちょっと止めて、またゆっくり吐き出す。出て来た煙は、もう何の成分も残っていないような、そんな感じだったという。
「最後の一本」を終えると、今度はNさんはコーヒーをおごってくれた。
サービスエリアの自販機コーナーによくある大型の自販機で、中でレギュラーコーヒーが作られる様子を実況中継するモニターがあるやつだった。
キリマンジャロとかコロンビアとか選べるもので、紙コップ二個を熱そうに両手でもってきた。
車から出てこない女房と娘に比べて、サービス満点の旦那。このコントラストが鮮烈に中川の記憶に残った。
何か、魂胆があるのだろうかといぶかったが、それは会話の中に、何回か出て来たNさんのセリフで分かった。
それは、「もうここでお帰りになっていいですよ、中川さん。あとは、私たちが連れていきますから」という言葉だった。
この期に及んでまだそんなことを言ってるのかと思ったが、中川は単純に、自分の事を思って言ってくださっていると思い直して、いやいや、ここまで来たからいいですよと笑って返した。
料金的には、栃木市内を走るぐらいの料金だった。被災してお金もないだろうからということで、また自分も値引きしてでもこの仕事を取りたいという気持ちもあった。
さらにそれよりも、お母さんのことを守りたい。仙台で地元の葬儀業者にちゃんと引継ぎをしたいという希望もあった。
業者の中には彼の言葉に乗って、遺体を渡して帰途につく輩もいるかも知れない。
その方が経費が浮くし、遅くならないで帰宅することができる。
しかし、かれの職業意識がそれを許さなかった。
コーヒーを飲み終える頃、Nさんは自分の被災体験を話し始めた。
高級外車を販売するお店を経営していたとのことだった。
中川も車が好きなので、メルセデス、ポルシェ、ランボルギーニ、マセラティ、BMWと聞けば、話に花が咲くブランドであった。
それが、あの日、津波とともに流されていった。店舗だってこの辺ではしゃれたデザインの店だった。そういう車に乗るオーナーは、 得てしてセンスのいい人たちが多い。店舗も一流のデザインじゃないと立ち寄ってくれない。車も、一台数千万円ぐらいすることは中川も知っている。お金を相当使ったに違いない。
「やっと、軌道に乗り始めた頃だったのに・・・」と言って、Nさんは涙声になった。
こういう時、お客さんには、「生きててよかったですね」ぐらいの手あかのついた言葉でもよかったのであるが、彼は思い切って言ってみた。
「N社長、でもね、流されてよかったじゃないですか」
一瞬、Nさんは意外な顔をした。
「代わりに一台数千万円のスーパーカー達に死んでもらったんですよ」
「・・・・」
「だから、Nさん、生きていられたんですよ。奥さんだって、娘さんだって、お孫さんだって、誰一人として家族が津波で死んでないでしょう?」 「・・・・」 「お母さんは、高齢だし震災のショックで仕方ない部分もあるけど、こうやって息子さんに迎えにきてもらって、仙台でお葬式まで出してもらえるんだもの。 幸せだと思いますよ。今回の津波で施設や病院もろとも流されて、泥水におぼれて死んでいった年寄りや病人がたくさんいるんだから。遺体も見つからないんですよ。 それを思えば、本当によかったじゃないですか!」と口をついて出た。
Nさんは意外な顔をしていた。「本当にそうだろうか」とでも言いそうな顔だった。
そうですよ。「だから死んでいった車たちのためにもがんばって生きて行かないと!」。
サービスエリアを出ると、あともう少しで仙台だった。
ところが、N家の乗用車が70キロぐらいの低速になってしまったのである。後ろから高速の車が批判的に追い越してゆくのが見られた。 後続の車が追突する直前で車線変更をして、追い抜いたとおもったら、また急に車線変更して元の車線に戻るような、「何やってんだよ」といわんばかりの追い越し方であった。
その中を、乗用車とワンボックスカーの二台が、とろとろと走っているのだから、迷惑千万である。
何をしているんだろうと、後ろから中川が車内を見ると、三人が話しをしているのか、頭部がしきりに動くのが分かった。
中川は、これはきっと故郷にお別れをしているに違いないと思った。名残惜しさに低速にして、いつまでも故郷の風景を見ておきたいと。
そこで、さっきの中川車自慢のお別れホーンの登場である。中川は故郷のお別れをもっと盛り上げるつもりで、かの390Hzの重低音ホーンを、約3秒間鳴らしたのである。
「フワーーーーーーーーーーーーン」というホルンの和音が、福島浜通り地方にこだましたのである。
すると、どうしたことか! 車は急にスピードを上げて、また100キロ以上で走行しはじめた。
「あれ? 早く行けって勘違いされちゃったかな?」
このお別れホーンがのちに、重要な意味を持っていたことが分かるのだった。
家族みんなで死ぬために 栃木に行ったんですよ
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仙台に着いた。
今となっては町名も番地も忘れてしまった。
しかし、住宅街の一戸建てを市からあてがわれて、N家は四人でその家に住んでいた。
こじんまりしたいい家だったが、Nさんが住んでいた社長邸からすると、小さかったに違いない。
中川は、お母さんの遺体を、地元の葬儀業者に引き渡して、注意事項を伝えた。
もう外は暗くなっていた。
もう、帰ろうと思って、家族のいる部屋のふすまをノックして、開けた。
N家の4人がその部屋にいた。
大人3人は、中川を見ると、急に改まって正座をして向き合った。
Nさんが、「中川さん、どうぞ座って下さい」という。何を改まってと思って、おそるおそる中川も3人の前に座った。もちろん正座である。
遺体搬送は、遠いところまでやっているので、そんなに珍しいことではない、なにをそんな重々しいことをするのかと思っていると、Nさんが訥々と話はじめた。
「中川さん、実はですね・・・」
Nさんは、さきほども彼が言ったように、高級外車の店を立ち上げ、軌道に乗って来てこれからというところで、津波に全部の財産を流されてしまったと。
「これからまともな生活ができるだろうと夢を描いていたのが、一瞬にして真逆になってしまった。これからどうやって生きて行っていいのか分からない状態だったんです。
そこへ、避難していたおふくろが死んだという連絡がはいった。俺は迷ったんです。どうしようかと。でも、家族で話し合って、みんなで行くことに決めたんです。 母親を引き取るだけだったら、俺だけでよかったんですけど、帰りにN町に行くことにしたんです。
俺、何度も、自分の車で母親を連れて帰るって言ったでしょ? 常識では考えられないことかもしれないけれど、別に車に死人が一人乗ったって関係なかったんですよ。 どうせ、今日中に4人ともそうなるんだから。糞が出ようが、血へど浴びたって関係なかったんですよ。
だから、中川さんがいろいろ理屈を言って、車で送ってくれるっていうから、 断りきれなくて、とりあえず2台で出発しましたけど、途中、妻と娘から、いつおふくろをこっちの車に乗せるのかって、 降りるはずのN町のインターを過ぎちゃったじゃないのって、中川さんがそばにいるとできないから早く帰ってもらってとしきりに言われてね、 じゃあ、次のサービスエリアに入るから、あそこでおふくろをこっちに乗せ換えるからと言って、あのサービスエリアに入ったんですよ。
俺、あそこでも何度も乗せ換えたい、もう中川さんは帰って下さいと言いましたよねえ、でもひきさがらなかった。だから、 あそこでおふくろをこっちの車に乗せてくれたら、そのまま次のインターで降りてN町に引き返せたんですよ。 そしたらもう町には誰もいないし真っ暗だし、どんなやり方でもできたんですよ。
そのときですよ、中川さんが「代わりに車たちが死んでくれたとか、おふくろにちゃんと葬式を出せることができるとかなんとか訳のわかんない余計な事を言い出して。 そしたら、なぜか霊安室で見たおふくろの顔が、私の頭の中に何度も出て来るんですよ。俺たちの想像していたおふくろの姿じゃなかったんですよ。 あのおふくろはいつもきついことばっかり言っていた、特に女房はどのくらい言われたか分かんないですよ。
娘もひどい旦那から追い出されて子連れで離婚させられて、その上電力会社に勤めていた関係から、みんなからののしられた。 でも、そんなことはおかまいなしにこの孫娘にもきついことを言っていた。でも、血を分けたおふくろだから最期だけは引き取って、 一緒に死のうって言って栃木に行ったんですよ。でも、あの生きているような顔を見たとき、なんだかいままで悪かったなあお前とあやまられたような気がしたり、 また、お前たちはこれからいったい何をしようとしているのと、怒られたような気がしたんです。また、おふくろがそういういい顔をしているのに、 なんで俺たちはこんな暗い顔をしているのかと。
それで、遺体を移せなかったことと、中川さんに言われたことを二人に話したらけんかになっちゃって、決めたことなんだからしなきゃだめだとか、 いや中川さんの言う通りだとか、一番初めに言ったあなたがそんなこと言って、私たちはどうしたらいいのよとか言っているときですよ、 後ろから中川さんが早く行けってクラクションをずーっと鳴らされて! それでもうこれは年貢の納め時だと思ったのか、みんな急に静かになっちゃたんです。
それで、そのあとずーっと無言で。そしたらいつのまにか家に着いちゃってて。おふくろを布団に寝かせて、また中川さんがおふくろの顔を直してくれて。 そして、あのおふくろの顔を見ながら、また家族で話し合ってたんです・・・」
ここまで、Nさんは一気に話した。
少し沈黙があった。
そして、Nさんは、すすり泣きを始めた。
奥さんも、娘も泣き始めた。
赤ん坊も、タイミングよく泣き始めた。
中川も、つられて泣けてきた。
ふすまの向こうから、地元の葬儀業者たちが横目で覗いていたが、お構いなしに五人で泣き続けたのである。
「死体屋」を続けてみよう。人を幸せにする何かがある。
そのあと、中川はその家を辞して帰途についた。
何か元気づけるような言葉をかけたはずだが、思い出せない。しかし、もはやあの家族に言葉は要らなかった。
最後に、お母さんに線香をあげたことは覚えている。
「あれ?」
その時、お母さんの顔が、自分の処置した目尻の位置から、もっと下がっているような感じがした。
下がっていても不思議ではない。もともとお母さんの体だし、本人の霊魂はそばにいるのだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
さて、中川のその後の事をすこし話してこの節を終えよう。
彼にとって、この仙台出張はひとつの転機になった。この仕事を続けてもいいかなと思った大事な出張になったとのことである。
それまで、彼は「死体屋」と呼ばれ、親族からも軽蔑されていた。しかし、生活のためには仕方なかった。依頼してくれる人がいれば、受けなければ妻子が路頭に迷う。
しかし、単に生きていくためだけの仕事ではなく、この仕事には人を幸せにするなにかがあると、この出来事で知った。
それならば、もっと突き詰めてみよう。故人の冥福もさることながら、一番つらいのは遺族なのだ。その遺族を少しでもこの死後処置の仕事でケアできないかと、探求しようと思ったということである。
そういう意味で、このN家は、彼の記憶に鮮明に残った。
その後、N家はどうしているだろうかと、今でも思い出すという。
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